師表

「馬鹿な子ほど可愛いって言うでしょ」そう言いながら、彼女は本当に幸せそうに笑う。彼ね、すごくプライドが高いの。そういう人は嫌いなんじゃなかったっけっと問うと、彼女は口元だけで笑った。

 

自分は頭がいいと思ってるし、人付き合いも上手くできてると思ってるのよ。その考えがまず幼いでしょう。しかも自分は現代的な思考・倫理観を持っていて、亭主関白なんかは現代の社会にそぐわないと考えてるし主張もする。妻も仕事をしてるから家事も折半してるし男としての頼りがいもあると思ってる(間違えても家内とは言わない)。相手にもそう思っていて欲しいし、口に出して欲しい。「ああ、あなたは完璧な夫だわ!」

ーーでも、本当は三歩下がってついてくる嫁がいいし、口答えしない女がいい。物知りねと可愛く微笑んでほしい、肌はいつも清潔でキレイであってほしい。僕がこんな控えめな女を好きで選んだではなくて好きになった女がたまたまそうだっただけ、であって欲しい。

それが全部全部透けてるのよ。しかも、自分でその欲望に気づいていない。あくまでも自分の理想像が自分であると思ってる、可笑しいでしょう。

 

そんな人間の方が多いよ、少なからずみんな自分を演じてるよ。私がそう言うと、彼女はまた口元だけで笑う。人間っていうのは、愛しいものね。

逢瀬

「いったい、どういうシステムなんだろうね」そんなことを彼女は真顔で言うものだから、私は思わず笑ってしまった。この子の世界は随分平和になったものだな、と思った。

 

彼女が、私の紹介で付き合い出した彼と一緒に暮らし始めるまで、大した時間は要さなかった。二人暮らしはどうなのかとからかうように尋ねると、彼女はヘラヘラしながら平和であると答えた。

そりゃ、喧嘩もするけどね。想像していたよりもずっと順調だよ。あ、そうそう、自分でもビックリするんだけどさ、たまに考え込んだりする訳ですよ。本当にこの人でいいのかな?というか、彼は本当に私でいいのかな?ってことを。お互いもっといい人いるんじゃないかとか、彼は結婚願望があるんだから別れるなら早い方がいいとかさ。でも、でもですよ。帰ってご飯作ってるところに彼が帰ってきて、ただいま〜疲れた〜って言ってる顔見ると、あぁ、この人じゃないと駄目だな〜って思うの。だって論拠もなしに、顔見ただけでこの人だなって思うんだよ。いったいどういうシステムなんだろうね。凄くない?凄いよね。同棲発明した人凄いよね。世の人はこのために同棲してるのか!って思ったもん。

一通りそのような話を聞いて、笑いながら相槌をうつ。世の人が皆、同棲したからといって毎日そんな気持ちになっていないことは私でもわかるけれど、何より幸せそうな彼女を見てとても嬉しかった。失踪できなくなっちゃったな〜と笑いながら言う彼女を見て泣きそうになったし、私は、嬉しかった。

依存

「彼女がね、とても我儘なんだ」そう言った彼の顔は嬉しそうで、おかしなやつだなと僕は笑った。

 

我儘っていうのは、いわゆる一般的な成人女性のそれじゃない。ブランド物が欲しいとか、高級な食事がしたいなんて彼女の口からは聞いたことがない。何が欲しいかと尋ねれば弁当箱とか、何が食べたいかと聞くと焼き鳥とか、俺が好きになったのはそういう女の子だった。でも家に帰ると途端に子どもみたいな我儘を言う。やれ髪を乾かして欲しいだの、一緒に手を繋いで寝て欲しいだのでグズったりする。そんなの三歳児じゃないかと思う。彼女の実家に二人で帰ることになったとき、家での様子をしっかり見てやろうと思ってたんだ。家ではどんな我儘な”子ども”になるんだろうと思ってさ。でも、違った。お母さんに聞いたところ、彼女はえらく手の掛からなくて聞き分けの良い子どもだったらしい。

彼女が僕の前でだけ、他のどこでもしなかったぐらい油断してるんだよ。子ども時代をやり直すみたいに他人に甘えて依存してる。こんなに嬉しい、いや、優越感は他に無いよ。

不順

忘れていいんだよ、って彼が言うの。自分では忘れたと思ってるのにね。体は記憶してるみたいだし、簡単には忘れてやらないって気概も感じるほどだよ。知ってると思うけど、私は肉体的に虐待されたことなんてもちろん無いけど精神的にはそこそこ過酷な環境だったと思う。近しい大人の機嫌を取り続けるなんて、感情の行き場所になるなんて、小さい子どもにやらせることじゃないよ。怒られないってわかっていても、例えば、私のほうが遅く帰った日に食事の準備をしてくれていたり、洗濯を率先してやってくれたり、家のことして貰うとありがとうより先にごめんが出る。そんこなこともできないなんていつかすごく責められて嫌われるんじゃないかって。そんなこと思う人じゃないってわかってるはずなのに。

記憶が時間の順番に消えてくれたらいいのにね。嫌なこととか辛い事が昔の分から残って、凝縮されていくみたい。彼のくれる絵に書いたみたいな幸せが私には怖いよ。

不熟

研究室の同期から飲みに行こうと誘われ、二つ返事で快諾した。ただ、もう少し時間がかかると告げると彼は先に飲んでいますと言い研究室を出た。珍しいこともあるものだと思いながら(普段の彼は一人で昼食を取っているのも見たことがない)、パソコンに視線を戻した。

 

「彼女が僕を怖がるんです」私が店に着くやいなや顔を赤くした彼は言い、しかしちっとも愉快そうではなかった。それって半年前ぐらいに猛アッタクしてできた違う大学の彼女だっけ、と確認すると酔いが回るよと制すほど彼は首を縦に振った。

「初めは勘違いかと思った。でも気づいたんだ。彼女、僕の動作の初速度が速かったり、腕を勢いよく挙げるとビクッとする」彼はこちらを見ない。

答えはもうわかっている。彼は答えを躊躇いなく音にしてくれる人間を選んでこの場に誘っている。でもそれを認めたくない。その間で揺れている。親か、過去の恋人か、近しい大人か、選択肢はあるけれど彼女にあるのは他者に暴力を振るわれた経験だ。

「慣れだ」そう言うと彼は今日初めて私の顔をジっと見た。「彼女もきっとわかってるよ。あなたは大丈夫だと。でも体はそうはならない、頭でわかっていても反応してしまう」違うんだ、違うと彼は2回繰り返した。

「彼女は他人から暴力を受けたことなんて無いって言うんだ」私は彼の彼女を思って悲しくなる。彼女に似たような人がいたことを思い出す。

 

「あなたはもう、自分は安全だということを長い時間をかけて、下手したら一生をかけて彼女にわかってもらおうとするしかないよ。それができないなら早めに手を離してあげた方がいい」

 

幸福

「幸せ過ぎて恐いの意味がわかった気がする」

彼女は僕に入籍の報告をした後に、ポツリと呟いた。僕はその時初めて彼女に恋人がいたこと、その彼にプロポーズされて結婚を決めたことを知らされたので動揺していた。彼女は僕と同じで結婚しないことを選んでいると勝手に思い込んでいたからだ。

「彼が私のことを甘やかすのよ」

そうして欲しいときに抱きしめてくれる、夜一緒に眠ってくれる、私のなんでもない話を聞いてくれる。まるで子どもにするみたいに。私が何かする度にありがとうって言ってくれるの。ご飯作ったり、洗濯畳んだだけで。きっと私には手に入れられないと思ったものが、急に手に入ったの。私に、私の帰る家ができたの。

それはとてもいいことだと僕は言う。彼女にそのような人が現れて本当に良かったと思う。いつ会ってもゆらゆら揺れていたような彼女が精神的に満たされ安定し、僕の目の前にしっかりと存在してくれることが本当に嬉しかった。

今までで一番安心してまたね、を彼女に言える。きっと彼女はもう急に消えたりいなくなったりしない。この世界に、生きている。

 

 

共鳴

いつもきっかけは些細なことだ。お気に入りの、明るいとは言い難いブログを読んでいる時とか。

 

幼少期の実家での出来事がフラッシュバックする。気を張っていた。大人の感情の機微をいつでも拾えるように。感情の揺れに対して適切に対応できるように。だいたいは気配を消して黙っていれば事なきを得るが、その態度が相手の怒りに油を注ぐ結果になることもある。年を重ねる毎に対応がより上手になり、事なきを得る回数が増える。上手くやれていると思う。

 

幼少期に他人の感情の世話をしたことがある人間は、いつまで経っても他人の感情に敏感であると思う。似たような「お話」を自傷のように求める。私だけではない、と思う。