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作業

ひとつこなす度に、終わる度に、深い息を吐く。ひとつ終わると楽になる、幸せになる。

 

「小説や漫画じゃこの辺のいいタイミングで救世主のような人が現れる。でも私には現れない、ここは現実であって紙の上じゃない。13のときにそう学んだ」そう彼女は言った。親族の葬儀を終えた彼女と久しぶりに食事に行ったときのことだった。親戚が多く、祖父母も人より多く持ち、彼女にとっての冠婚葬祭はそのほとんどが“葬”だった。でもこれでやっと終わった。もう暫く葬儀はないと思う、誰かが事故でも起こさない限り。そう言いながら彼女は、微笑む。私はその横顔が存外好きだった。

そのうちいい人が現れるよ、そんな気がする。あなたはきっと何らかの形で救われる。と心の中だけでつぶやく。なんとなく声には出せなかったけれど。

帰り際に彼女が、風に消されるような声でポツリと呟いた。私は自分のことを可哀想がったりしないし、感情の皺寄せを他人に投げて寄こしたりしない。とてもゾッとしたような気がするのに、今となってはその時の彼女の表情を、よく思い出せない。

昏睡

眠らせてください。
 
いい天気の週末に、シーツを洗ってお布団を干す。その影で横になり、静かに目を閉じるときの幸福感が好きだった。今日はもう家を出なくていいし、たった今しがた私が行った家事労働のおかげで、今晩の快適な眠りは保障されている。
私を邪魔するものはなにもない、そう思いながら眠りにつく。目が覚めてももう一度眠りにつく。何度目かの覚醒で食事を取り、また眠り、次の覚醒あたりで布団を室内へと取り入れる。それらの途中で、チカチカ光るスマホの画面が目に入る。逸らす。今日の私には必要のないもの。
まだ時間はある。週末はまだ終わっていない。私だけの時間。眠らせてください。

夏至

こういうことを、私はきっと忘れないんだろうと思った。

煙を吐きながらいろいろなことが頭を過る。ボーっとしていながら様々なことが巡っている。「アブストぐらい読めよって思う」「金曜日12時半に上の研究室」「これどうやるの」「トナー注文してもいいですか」「また飲みに行こう」エトセトラ、エトセトラ……。脳に取り込まれて、取り込まれ過ぎて整理できないものの中からいらないものを吐き出しているようだと思った。

最近覚えてしまった煙草だけれど、それが習慣になるのには多くの時間を要しなかった。今では日中に2、3回は席を立ってしまう。突如として襲ってくるイライラを、表面に出ないくらいに落ち着かせるためにはいい息抜きになっていた。この習慣について友人から手厳しく批判されることはあったものの、それと私の習慣とは何の関係もないと思っていた。

誰もいない喫煙所。安っぽいプラスチックで仕切られた1畳とちょっとのスペース。灰が溜まっている3つの灰皿。ゴミの入っていないゴミ箱。機械排気の音。足元を這う蟻。建物の西側に位置するそこ。

無造作に置かれた椅子から立ち上がって、日が長くなったなと思う。それでも暮れていく西の空を眺めながら、こういうことを、私はきっと忘れないんだろうと思う。

服毒

「体に悪いことしてる方が、精神的に落ち着くもんだよ」と、彼女は言う。

最近肩身が狭くてね、特に若い女なんかは好奇の目にさらされるよ。女は黙ってスムージーでも飲んでろってかと思うけど、そんなことした方が体調悪くなるよね、絶対。体と精神足して100でしょ。そりゃあ常にハーフ・ハーフならいいけど、そんなことはまずないよ。体が健康な方が精神的にも落ち着くなんて話もあるけど、少なくとも私は違うかな。体に悪いことしてる方が生き生きしてる。仕事のプレッシャーも、煙草も、お酒も、コーヒーで飲む鎮痛剤も、不眠もいいもんだよ。最近自炊なんかもしてみてるけど、それだったら食べない日の方が精神的には落ち着いてる。昔から親とか先生とか周りの人に大事にされないのに慣れすぎて、自分で自分のこと大事にするのも気持ち悪いんだ。早死にするね、コリャ。

そう言いながら、不健康そうな顔でケラケラと笑う彼女が、僕は好きだった。彼女を大切にしたい僕のことを、彼女は嫌いだった。

自壊

電話が鳴った。正確には枕元の携帯が振動していた。私に電話を掛けてくるような人は2人しか思い浮かばない。いつまでも私のことを子どもだと思っている母親と、大学に入ってから仲良くなった親友のどちらかだ。もっとも、彼女が私のことを親友と思っているかどうかは怪しいけれど。
「ごめん、寝てたよね」開口一番、彼女は謝った。その言葉は、2年の付き合いの中で私たちの合言葉となっていた。「いいよ、おいで。今日もいつも通り部屋はキレイじゃないけど。あ、飲み物なにか買っておいで。うち、今紅茶しかないから」私がそう言うと、彼女は一呼吸置いて分かった、とだけ言って電話を切った。最初のうちは戸惑っていたけれど、彼女が電話をしてくる日は必ず彼女に何かがあったときで、私の家に招き入れて彼女の話を聞くのがお決まりだった。
二人で小さなちゃぶ台を挟んでカーペットの上に座った。私が家にいるときはそのほとんどの時間をベッドの上で過ごすから、彼女が来る時にだけ、カーペットがすり減っているなと思うのだった。
「人間ってさ、よく分類されるよね」彼女はそう切り出した。
「勝ち組と負け組、持っている人と持っていないひと、運の良い人、悪い人」確認するようにこちらを見る彼女。私は首の動きだけで返事をする。
「分類方法なんて様々だし、分類してるのも人間だし、しかもこれらの分類には明確な基準がないの。ほとんどが主観だし。年収1,000万円は勝ち組だって言う人と、そんなの負け組だっていう人が同時に存在するみたいに。それぐらい曖昧で不確かなものだってことは分かっているんだけど、私の中にも少なからずそういうのがあるの」私は頷く。
「相手にどんな態度取られても優しい人と、相手が接しってくるのと同等の態度で対応を返す人と、自分は相手に粗雑な対応をしているのに、自分は丁寧に扱われないと気にいらない人。3種類」彼女がこちらを見る。もう一度頷く。
「で、この人駄目だと思ったら、スッと引くの。一目散に逃げる。そうしないと、大事なもの守れないから。でもね、相手に粗雑な対応をしているのに、自分が丁寧に扱われないと気が済まない人って、自分の前から逃げてく相手に凄く敏感なんだよ。自分は乱暴なことをする、でもお前ら私を敬え丁寧に扱え、そこにいろって。それって凄く傲慢でしょう。でも本人はそのことに微塵も気付いてないの。自分の態度が悪いなんて考えてもいない」二度頷く。
「私って昔から、同姓に嫌われるの。後輩は結構懐いてくれるほうだと思うけど。同じぐらいの年の派手な子とか、お母さんぐらいの年の人とか、一回り上ぐらいの女性とか、あんまり年齢関係ないんだよね、こういうのって。別に全員に好かれたいわけじゃないけど、私が何しても不機嫌なの。きちんとしても、失敗しても。私に対するコマンドが攻撃しかありません、みたいな人たち。別に私は、どうしようない人間なのに。優れた人間を攻撃するならまだわかる、人間ってそういうものでしょう。でも私みたいなどうしようもない人間を攻撃して、これ以上惨めにしても何にもならないから辞めてくださいって思うの。それともあれかな、どうしようもない人間だから攻撃されるのかな、私はこれからもそうなのかな」
彼女はそこまで言いきって、長く細い息をついた。私はその息に乗って彼女の大切なものが体から出て行ってしまわないのか、なんてことを考えた。少なくとも私から見た彼女はどうしようもない人間なんかではなかったけれど彼女の自己評価は酷く歪んでいて、大多数の他人が自身をどう見ているかをいつまで経っても理解しなかった。
「ねぇ、私みんなに、大切にして欲しい大事にして欲しいなんて思ったこともないし、ましてや口に出したことなんか一度もないよ。そんなこと思ってない。だから、だけど、ただもう放って置いて欲しい。攻撃してくる人も軽率に私を心配してくる人たちも。私”助けて”なんて唯の一度も言ったことがないのに”いつでも頼ってね”なんて言うの。攻撃も心配も同等に暴力だよ。その人たちは私が目の前から消えるのを許してくれない!あなたならわかるでしょう、私お休みの日はあの狭いワンルームから一歩も出たくないの。携帯の電源も切ってパソコンの電源も切って休んでるのに。あの人たち、連絡一日返さないだけでなんであんなに不機嫌になるの……」今まで落ち着いた口調で喋っていた彼女が早口になり息が挙がってきたところで、落ちると思った。回路がショートしてブレーカーが落ちてしまう、と。
予想通り彼女は息が詰まった後に話すのをやめ、顔を青く、白くさせてふらりと座ったまま倒れそうになった。私は寸前のところで彼女の頭を受け止め、そのままゆっくりとカーペットの上に寝かせた。こうなったら彼女は暫く起き上がれない。彼女は、自身のその“不具合”を酷く嫌っていた。

懇望

彼女のことはよくわからないと思っていたし、掴みどころの無い女だと思っていた。そんな彼女が、祖母の葬儀のために田舎に帰ってくる。彼女を迎えに行くのは、僕の役目になった。
「良かったね」
最寄り駅に着いた大荷物の彼女を車に乗せ、一息着いた後に発した一言目がそれだった。僕は一瞬、なんてことを言うんだ、と思ったが、その言葉には何も違いないと思って反論するのをやめた。
「息子は母を好きじゃなかった。息子の嫁とは折り合いが悪かった。内孫は祖母のことが嫌いだった」そう言ったあと一呼吸おいて、あんなに死を望まれた人も珍しいんじゃないとポツリと零し、伝聞の通り憎まれてたから長生きしたね、とも言った。
「お前はあの人のこと好きだったもんな」僕が皮肉でそう言うと、彼女は非道く人を馬鹿にしたように、あなたまだそんなこと思ってたの、と吐き捨てた。
 
通夜、葬式と一通りのことを終え、彼女が帰る朝にみんながいる前でこういった。
「皆さん、この度はおめでとう。早く死んでくれと思っていた人がいなくなってそれはそれはスッキリしたでしょう。あとの余生は家族三人で幸せに。それじゃあ、当分会うことはないでしょう」
そう言って家を出た彼女。父も母もただ呆けてそこに立ち尽くしていた。僕の後にこの家に生まれた彼女の、彼女の中で少しずつ少しずつ育っていた何か暗いものの存在に、僕らは気づかずに、否、見て見ない振りをしていた。
見たこともない妹の背中の輪郭が滲んでぼやけた。僕が待ち遠しくさえ思っていたこの日を、彼女もまた、首を長くして待っていたのだろうということに気づく。

憧憬

六月の中旬、午後2時。もっとも影の少ないと思われるそのときに限って、薄暗いそれはそっと身を寄せてくる。学食のカウンター席に腰掛けて、昼食を取っているときだった。中庭の新緑が眩しく、お昼休みが終わりかけの時間帯は学生が急ぎ足で往来する。爽やかに駆けていく彼女たち誰もが、キラキラと輝いて見えた。
「今日はいい天気だね」背中の方からそう声が聞こえ、箸を持ったまま振り向くと手にプリンを持った先輩が立っていた。私は頭を少しだけ前に傾けて挨拶をした。「遅い昼食だ」そう語り掛けながら、それがさも当然で、まるでそこで落ち合う約束があったかのごとく先輩は隣の席に腰掛けた。「珍しいですね、間食なんて」私がそう尋ねると「たまにはね」と言いながらプリンをすごく丁寧に食べ始めた先輩はとても幸せそうで、先程まで私が目を奪われていた女学生にそっくりの横顔だった。
「キラキラしてる」私がそう呟くと、先輩は目を細めて私の方を向いた。ゆっくり一度頷くと向き直り、「今日はいい天気だからねぇ」と下手に語尾を伸ばして答えた。