依存

「彼女がね、とても我儘なんだ」そう言った彼の顔は嬉しそうで、おかしなやつだなと僕は笑った。

 

我儘っていうのは、いわゆる一般的な成人女性のそれじゃない。ブランド物が欲しいとか、高級な食事がしたいなんて彼女の口からは聞いたことがない。何が欲しいかと尋ねれば弁当箱とか、何が食べたいかと聞くと焼き鳥とか、俺が好きになったのはそういう女の子だった。でも家に帰ると途端に子どもみたいな我儘を言う。やれ髪を乾かして欲しいだの、一緒に手を繋いで寝て欲しいだのでグズったりする。そんなの三歳児じゃないかと思う。彼女の実家に二人で帰ることになったとき、家での様子をしっかり見てやろうと思ってたんだ。家ではどんな我儘な”子ども”になるんだろうと思ってさ。でも、違った。お母さんに聞いたところ、彼女はえらく手の掛からなくて聞き分けの良い子どもだったらしい。

彼女が僕の前でだけ、他のどこでもしなかったぐらい油断してるんだよ。子ども時代をやり直すみたいに他人に甘えて依存してる。こんなに嬉しい、いや、優越感は他に無いよ。

不順

忘れていいんだよ、って彼が言うの。自分では忘れたと思ってるのにね。体は記憶してるみたいだし、簡単には忘れてやらないって気概も感じるほどだよ。知ってると思うけど、私は肉体的に虐待されたことなんてもちろん無いけど精神的にはそこそこ過酷な環境だったと思う。近しい大人の機嫌を取り続けるなんて、感情の行き場所になるなんて、小さい子どもにやらせることじゃないよ。怒られないってわかっていても、例えば、私のほうが遅く帰った日に食事の準備をしてくれていたり、洗濯を率先してやってくれたり、家のことして貰うとありがとうより先にごめんが出る。そんこなこともできないなんていつかすごく責められて嫌われるんじゃないかって。そんなこと思う人じゃないってわかってるはずなのに。

記憶が時間の順番に消えてくれたらいいのにね。嫌なこととか辛い事が昔の分から残って、凝縮されていくみたい。彼のくれる絵に書いたみたいな幸せが私には怖いよ。

不熟

研究室の同期から飲みに行こうと誘われ、二つ返事で快諾した。ただ、もう少し時間がかかると告げると彼は先に飲んでいますと言い研究室を出た。珍しいこともあるものだと思いながら(普段の彼は一人で昼食を取っているのも見たことがない)、パソコンに視線を戻した。

 

「彼女が僕を怖がるんです」私が店に着くやいなや顔を赤くした彼は言い、しかしちっとも愉快そうではなかった。それって半年前ぐらいに猛アッタクしてできた違う大学の彼女だっけ、と確認すると酔いが回るよと制すほど彼は首を縦に振った。

「初めは勘違いかと思った。でも気づいたんだ。彼女、僕の動作の初速度が速かったり、腕を勢いよく挙げるとビクッとする」彼はこちらを見ない。

答えはもうわかっている。彼は答えを躊躇いなく音にしてくれる人間を選んでこの場に誘っている。でもそれを認めたくない。その間で揺れている。親か、過去の恋人か、近しい大人か、選択肢はあるけれど彼女にあるのは他者に暴力を振るわれた経験だ。

「慣れだ」そう言うと彼は今日初めて私の顔をジっと見た。「彼女もきっとわかってるよ。あなたは大丈夫だと。でも体はそうはならない、頭でわかっていても反応してしまう」違うんだ、違うと彼は2回繰り返した。

「彼女は他人から暴力を受けたことなんて無いって言うんだ」私は彼の彼女を思って悲しくなる。彼女に似たような人がいたことを思い出す。

 

「あなたはもう、自分は安全だということを長い時間をかけて、下手したら一生をかけて彼女にわかってもらおうとするしかないよ。それができないなら早めに手を離してあげた方がいい」

 

幸福

「幸せ過ぎて恐いの意味がわかった気がする」

彼女は僕に入籍の報告をした後に、ポツリと呟いた。僕はその時初めて彼女に恋人がいたこと、その彼にプロポーズされて結婚を決めたことを知らされたので動揺していた。彼女は僕と同じで結婚しないことを選んでいると勝手に思い込んでいたからだ。

「彼が私のことを甘やかすのよ」

そうして欲しいときに抱きしめてくれる、夜一緒に眠ってくれる、私のなんでもない話を聞いてくれる。まるで子どもにするみたいに。私が何かする度にありがとうって言ってくれるの。ご飯作ったり、洗濯畳んだだけで。きっと私には手に入れられないと思ったものが、急に手に入ったの。私に、私の帰る家ができたの。

それはとてもいいことだと僕は言う。彼女にそのような人が現れて本当に良かったと思う。いつ会ってもゆらゆら揺れていたような彼女が精神的に満たされ安定し、僕の目の前にしっかりと存在してくれることが本当に嬉しかった。

今までで一番安心してまたね、を彼女に言える。きっと彼女はもう急に消えたりいなくなったりしない。この世界に、生きている。

 

 

共鳴

いつもきっかけは些細なことだ。お気に入りの、明るいとは言い難いブログを読んでいる時とか。

 

幼少期の実家での出来事がフラッシュバックする。気を張っていた。大人の感情の機微をいつでも拾えるように。感情の揺れに対して適切に対応できるように。だいたいは気配を消して黙っていれば事なきを得るが、その態度が相手の怒りに油を注ぐ結果になることもある。年を重ねる毎に対応がより上手になり、事なきを得る回数が増える。上手くやれていると思う。

 

幼少期に他人の感情の世話をしたことがある人間は、いつまで経っても他人の感情に敏感であると思う。似たような「お話」を自傷のように求める。私だけではない、と思う。

茶番

「ああ、その時は抱きしめてあげればいいですよ」
先日の彼女の様子を彼に伝えて、返ってきた一言目がそれだった。続けて、「僕はいつもそうしています。それがてっとり早いですよ」とも。 
 
 
私は今抱きしめられている。親でもなく、友人でもなく、恋人でもない、ただの研究室の先輩に。それは酷く暖かく、絶望的なほどに優しかった。
「涙は流れているうちに流してしまえばいい。次はいつ来てくれるかわからないからね。今のうちだよ」そう言いながら私を抱き直したその人の手は、とても冷たかった。私は涙を流しがら少し窓の外を見遣り、「今日は特別寒い日だな」と思った。そうすると彼は少し笑いながら、冷え性なんだ、女の子みたいだろうと言った。君の考えることは、なんとなくだいたいわかるよ、と曖昧なことも呟いた。
それが、私が急に泣きだしたことに対してだったのか、冷たい手だと思ったことに対してだったのか今となってはもうわからないけれど、あの腕の中だけが私のなかで、私の知るなかで一番優しかったことは覚えている。
暫くの間沈黙があった。シンパシー。二人ともその場は動かなかった。
耐えきれず私は鼻で笑ってしまい「ありきたり過ぎて恋にもなんないですよ」と言うと、彼はそれもそうだな、と寂しそうに微笑んだ。

懺悔

「人は自分が救われた方法でしか人を救えない」のならば、私がパートナーから救われることはないのだろう。私は、パートナーに救いを求めている訳ではないからそれでいい。でも、救われていない私をパートナーが許容できるかどうかはまた別の話だった。

そう言って彼女は長い息を吐く。煙草は辞めたんじゃなかったっけと意地悪く問いかけた僕を見て、彼女は薄く微笑んだ。