懇望

彼女のことはよくわからないと思っていたし、掴みどころの無い女だと思っていた。そんな彼女が、祖母の葬儀のために田舎に帰ってくる。彼女を迎えに行くのは、僕の役目になった。
「良かったね」
最寄り駅に着いた大荷物の彼女を車に乗せ、一息着いた後に発した一言目がそれだった。僕は一瞬、なんてことを言うんだ、と思ったが、その言葉には何も違いないと思って反論するのをやめた。
「息子は母を好きじゃなかった。息子の嫁とは折り合いが悪かった。内孫は祖母のことが嫌いだった」そう言ったあと一呼吸おいて、あんなに死を望まれた人も珍しいんじゃないとポツリと零し、伝聞の通り憎まれてたから長生きしたね、とも言った。
「お前はあの人のこと好きだったもんな」僕が皮肉でそう言うと、彼女は非道く人を馬鹿にしたように、あなたまだそんなこと思ってたの、と吐き捨てた。
 
通夜、葬式と一通りのことを終え、彼女が帰る朝にみんながいる前でこういった。
「皆さん、この度はおめでとう。早く死んでくれと思っていた人がいなくなってそれはそれはスッキリしたでしょう。あとの余生は家族三人で幸せに。それじゃあ、当分会うことはないでしょう」
そう言って家を出た彼女。父も母もただ呆けてそこに立ち尽くしていた。僕の後にこの家に生まれた彼女の、彼女の中で少しずつ少しずつ育っていた何か暗いものの存在に、僕らは気づかずに、否、見て見ない振りをしていた。
見たこともない妹の背中の輪郭が滲んでぼやけた。僕が待ち遠しくさえ思っていたこの日を、彼女もまた、首を長くして待っていたのだろうということに気づく。

憧憬

六月の中旬、午後2時。もっとも影の少ないと思われるそのときに限って、薄暗いそれはそっと身を寄せてくる。学食のカウンター席に腰掛けて、昼食を取っているときだった。中庭の新緑が眩しく、お昼休みが終わりかけの時間帯は学生が急ぎ足で往来する。爽やかに駆けていく彼女たち誰もが、キラキラと輝いて見えた。
「今日はいい天気だね」背中の方からそう声が聞こえ、箸を持ったまま振り向くと手にプリンを持った先輩が立っていた。私は頭を少しだけ前に傾けて挨拶をした。「遅い昼食だ」そう語り掛けながら、それがさも当然で、まるでそこで落ち合う約束があったかのごとく先輩は隣の席に腰掛けた。「珍しいですね、間食なんて」私がそう尋ねると「たまにはね」と言いながらプリンをすごく丁寧に食べ始めた先輩はとても幸せそうで、先程まで私が目を奪われていた女学生にそっくりの横顔だった。
「キラキラしてる」私がそう呟くと、先輩は目を細めて私の方を向いた。ゆっくり一度頷くと向き直り、「今日はいい天気だからねぇ」と下手に語尾を伸ばして答えた。

日常

朝、ベッドの上で目覚めるとまず眼鏡を掛けて視界を取り戻す。カーテンの外を確認して晴れならばよしよし、雨ならばふむふむ、と思うことにしている。これは習わしだ。その確認が終わると、ケトルに水を入れて火にかける。蛇口をきつめにキュッと捻ることも忘れない。ひとつひとつ手順を踏んで丁寧に、それが僕の、悲しくならないためのコツだった。冷ましてぬるくなったお湯が喉を通り、ヌルリと落ちていった。
 
「そんなもの、必要?」と、彼女は言った。言っていた。
目の前を快速の電車が通り過ぎる。黄色い線の上。僕の短い髪も風に煽られて、一方向になびいた。電車が二本通り過ぎたところで、性懲りもなく彼女のことを思い出していた。彼女との別れをよく思い出せない。それぐらいいつも通り普通に、じゃあね今日はさようならと別れたはずだった。最後に見た彼女は、もう、曇りガラスの向こうだ。なのに電車を降りたあとで、4駅手前で人身事故があり電車が止っている、と駅のホームにアナウンスが流れていたことはよく覚えている。そのときに「巻き込まれなくてよかったな」と思ったことも。
そんな記憶を違う、違う、と振りきって、僕は今日も大学に向かう。今考えなければいけないのは顔も思い出せない女の子のことではなく、今日の講義の内容についてだった。
 

悲劇

彼女が泣いていた。会ったのは一年ぶり、泣き顔を見たのは初めてのことだった。しなやかで明るく弱かった彼女は、その日激しく涙を流していた。
「大丈夫」そう言って、彼女が焼香している間預かっていた荷物を渡そうと手を伸ばしたが、彼女の手が開くことはなかった。「大丈夫か」もう一度そう聞いて、伸ばした手でそのまま背中を支える。ここにいる全員、一体なにが大丈夫だと言うのかと思いながらも。いくらか後、彼女はすみませんと口を開いた。しなやかで明るく、強い声であった。写真の中にいる友人と彼女は、僕が知っているよりもずっと親密だったのかもしれないと、根拠もなしにそう思う。
そうして僕らは一年ぶりに再会した仲間と帰路に着く。南海電車の中で見た、彼女が静かに流した涙はとても美しかった。その日まで僕は、女はもっと五月蝿く、可哀相に、泣く生き物だと思っていたんだ。

邂逅

祖母が亡くなった。父方の祖父母の、最後の一人だった。

提出が差し迫っていた論文のことを気にしながらも、帰らない訳にはいかなかった。正確には、急げば死に目に会えるかもしれないと思った。急いで田舎までのバスを取り、鞄にパソコンと喪服だけを詰め込んで飛び出した。バスに乗るまでに随分走ったものだから、暫く息を切らしていた。呼吸が落ち着いてからも心臓がザワザワして落ち着かず気分が悪くなってしまったもので、空いている車内のなかで二席分を占領して横になっていた。道中、母から祖母が亡くなったと連絡が入る。ポコン、といつも通りに、えらく呆気ない訃報であった。

一人死ぬ度自分をここに繋ぎ止めている糸が切れていくようで、その人は最後の絹糸だと思っていた。しかし実際はその前と後では何も変わらず、むしろ心の支えが取れてホッとしたような心持ちになった。帰るのが嫌で嫌で仕方のなかった実家の空気が、祖母の死を契機に一変したのがわかった。

あぁ、目前に迫った明日の、なんて美しそうなこと。